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『大化の改新』実は大したことはなかった?!

 大化の改新とは中大兄皇子と中臣鎌足による、一大改革として捉えられている。その目的は蘇我入鹿の専横を正し、権力を正当な持ち主(天皇家)に帰するというものであったと、されている。その目的どおりに、蘇我入鹿を成敗した直後に即位した孝徳天皇により改新の詔が出され、様々な制度改革が成されたとされている。
私達が学校で習った大化の改新は、概ね上記のような内容であったと思う。

 だが研究者によっては吹聴されている大化の改新は、日本書紀による創作か後の世の過大評価ではないのか?と考える人もいる。
その論拠は日本書紀に記されている大化の改新の模様が、如何にも不自然であり、後世でしか現れない制度などが堂々と登場するからである。
例えば、正月に詔が出されたことは、大化の改新以前にも以後にも無いことが挙げられる。
また「国、郡、県(くに・こおり・あがた)」を整備し、令制国とそれに付随する郡に整備し直したと伝わるが、この郡という用語は大宝律令以後の用語であり、大化の改新当時は評(ひょう)という用語を使用していたらしい。これは、出土した木簡から明らかになっている。

戸籍や計帳の作成と公地を公民に貸し与える「班田収受の法」を実施したとも伝わるが、これとて701年の大宝律令に到って初めて登場するのであり、それ以前は存在が確認されていない。公地公民を謳いながら、豪族たちには土地の領有が依然として認められていたので、大化の改新は中途半端で小規模な改革に過ぎなかったとする見方がある。
何れにしもて七世紀に何らかの改革が行われたのであろうが、それは645年よりもかなり遅れて行われたのではなかろうか。
そして日本書紀の記述を改ざんしたのは、藤原不比等ではないかとする説が有力である。それは父鎌足の業績を大きく高く見せる、という動機で行われたものかも知れない。

 私達が常識、定説として信じている歴史上の出来事や人物たちの実相は、果たしてどんなものだったのだろう。大河ドラマや映画で描かれる武将たちは、本当にあれほどに格好が良く、スマートだったのか?答えは否であろう。
私は時々、変な想像をして一人でニヤニヤすることがある。例えば秀吉と伊達政宗の対面の場面など、想像すると非常に面白い。片方は尾張弁でミャーミャーと言い、一方はズーズー弁なのだ。
話しが通じたのだろうか?それとも通訳が存在したのか?直接は会話せず筆談だったとか・・・などとあらぬ想像をしてしまう。
そう考えると大化の改新も実は、伝わっている程の大改革ではなかったかも知れないという説もまた十分に可能性があるのである。

# by bric_3410 | 2012-05-28 05:34 | Trackback | Comments(0)

作家 鈴木光司さんへのインタビュー

 前回のシリーズで『精神世界が見えくる』から、ニール・ドナルド・ウォルッシュ氏の有名な著書『神との対話』が生まれた背景について少しだけ書いた。ここから今映画『リング』3Dが公開されているが、その原作者である鈴木光司さんのインタビュー内容を取上げてみたい。

 鈴木光司さんといえば、上記に記したように一連の恐怖小説「リング」「らせん」「ループ」の三部作が有名だ。「リング」は映像化され、観る者に底知れるほどの不気味な恐怖を与えることに成功した。それまでの恐怖とは一味違った作品であった。
鈴木氏は少し変わった経歴の持ち主で、高校時代はヘビメタバンドを結成し、それに熱中する余り勉強をせず成績も最低ランクだった。卒業後は電報配達で食べながら小説を読むことに熱中したそうだ。無論、作家になるというイメージを抱き続けていたことは確かであろう。
ここまでは世間でも幾らかはありそうな話しだが、鈴木氏には特異な能力があった。彼は小学生の頃から「作家になる」という強いイメージを抱いていた。そのイメージ力の凄さは例えば、電線の中を流れる電流をイメージすることも出来たほどであったという。

 意外なことに鈴木氏は、恐怖や心霊には興味を持っていなかった。それだからこそ返って型にはまらない、「リング」のような恐怖物語が書けたのだ。マニアックな常識に縛られないその発想は、新鮮であり意外な盲点であったから、恐怖現象や心霊現象のマニアにとってもショックを受けるような作品に仕上がったのだ。
鈴木氏は「リング」を書くに当たって、何も計画しなかったのだと語っている。一度に四人の人間が死ぬ、そういう小説を書こうと考えただけだったという。ここにも彼の持つ強烈なイメージ力が働いており、特段に構想を練ることも必要ではなかったらしい。

 作品を書き上げるに当たって、或いは、その作品の後々の行方(例えば売上げ部数など)に関するエピソードが幾つか語られているが、私にとってこの際、それはどうでも良いことであった。
それよりも、鈴木氏のシンクロニシティや宇宙、死や人間の進歩に関する考え方が非常に面白いと感じた。
シンクロニシティを感じる人間が成功している、という彼は自身で多くの成功者と呼ばれる人々にインタビューも行っている。成功者と呼ばれる人々は、皆、似た様なことを語ったという。彼らは一見して全く無関係の事象を関連づけて考えるということだ。
海面に浮んだ二つの氷山は、実はその下で繋がっているかも知れない、そう考える彼らはチャンスを逃さずにものに出来たのだという。

 例えば朝、椅子の向きが何時もと逆になっていた。その日に財布を落とした。この一見して無関係の二つの出来事を、結びつけて考えるのだそうだ。
そういう些細な現象から、直感や水面下の繋がりを察知し、彼らは成功者たり得たのだというものだ。

 それから宇宙に関する考え方も面白い。目前の光景は、実際に存在していないかも知れない。私がタイプしているこのPCも、今、飲み干したブラックコーヒーも、実際に存在しているか、本当は疑わしい。それは脳が作り出した幻影かも知れず、DNAと呼ばれる遺伝が創り出した仮想空間であるかも知れないからだ。
DNAがイメージする世界が広がると、宇宙も広がる。極論すればイメージに対応して宇宙は際限なく膨張せざるを得なくなる。
 私達は意識の主体であるから、それが周囲の全てを認識することにより、周囲が初めて存在として現れてくる。そうであれば、一つの宇宙に幾つもの意識的主体が存在するのはおかしいと鈴木氏は考える。

 従ってこの宇宙には私達地球人類しか知的生命体は存在しない、という結論に達する。しかし鈴木氏は私達以外の知的生命体の存在を否定しない。何故ならば、一つの宇宙に一つの知的生命(意識の主体)しか存在しないとしても、次元的相異、つまりは動的に異なる世界は無数に想定可能だからである。
 それからこの話しのような抽象的概念が出で来ること自体が、人間の進化であると鈴木氏は言っている。それは言語の発展と密接に関連している。
それについて、私はこう理解している。昔は現代ほどに多くの人々が言語を自由に操れなかった、そのことが意識の及ぶ範囲を限定していたから必然的にあらゆる考えの範囲も狭められていたのだと。

 したがって例えば「死の恐怖」も、昔の人の方が現代人よりも少なかったかも知れないと鈴木氏は考えているらしい。極端に言えば馬や猫よりもカエルの方が「死」に対する恐怖はより少なく、カエルにいたっては感じていないだろうという。
それは「死」という現象に対する概念が存在しない、或いは極めて貧弱だからだ。「死」を知らなければ「死」に対する恐怖も存在しない。
当然であるが、しかしこれは詭弁に過ぎないと思う。この世に生まれた以上は、本能的な保身という機能が全ての生物には備わっている。例え知的でなく「死」という概念を持ち得ないとしても、それこそDNAの欲する種としての存在という大儀名分がこれにとって代わるのである。尤も鈴木氏のいうのは「死」という概念に対してのことであるから、その意味では正しいとも思うのではあるが。

 さて鈴木氏は現代の方が、過去のいかなる時代よりも素晴しいという。そして彼が提唱するのがループプロジェクトの推進である。ループプロジェクトとは、コンピューター上の仮想空間に生命を誕生させるプロジェクトである。仮想世界には突然変異や寄生、免疫などの全ての条件を入れ込み、そこに誕生した生命がどう進化するのかを観察する。
それを使い未来を予測することにより、現実世界の私達の意識改革を促し、問題に対処するというものだ。
これは不可能に思えるかも知れないが、現代の技術でさえも100年前の人々にとっては不可能なものばかりである事を考えると可能性は少なからず存在する。
人間がこの世界を意識している主人公である以上は、人間の力をどれだけ信じるかが個人としての全体としての未来も、そのあたりに鍵があると思うと述べている。

 鈴木氏は精神世界を余り知らないというが、それでも彼の描く小説の内容や、インスピレーションの受け取り方など十分にスビリチュアルなのである。それは一流のアーチストに共通する特技なのであろうか。私はそうは考えない。
ただ物事にたいする注意力の差だけなのであろう。それは感性が敏感だとか、鈍感だとかいう問題でもないような気がする。求めているかどうか、という部類の問題であると考える。感知するかしないかは別にして、見えない世界から多くの支援が行われていると私は信じたい。

# by bric_3410 | 2012-05-26 20:56 | Trackback | Comments(0)

縄文時代の戦争

 縄文時代は、リーダーこそ存在したが基本的に身分や貧富の差がない平和的なイメージが一般的だ。しかし2002年、土佐市で発見された縄文晩期の居徳遺跡から、どうやら戦闘によって殺されたと思われる人骨が発見された。
それはバラバラにして遺棄されていたが、成人男女9人分の遺骨であることが判明した。
その骨には傷付けられた痕があり、国内最古の戦争の犠牲者たちであると考えられている。

 骨製の矢尻で穴が開いている骨や、金属製のノミ状のもので何度も刺された痕跡が見てとれたからだ。集落同士の争いとも考えられたが、発見された骨は鹿やイノシシの骨と共に捨てられていたので、死後すぐに解体されて特定の部分だけが捨てられたものと考えられている。
 さて、鹿やイノシシの骨と一緒に捨てられているとなれば、私などは嫌な推測をしてしまう。それは食人習慣を持つ人々の仕業であり、殺された人々はその餌食に成ったのではないかという疑問である。

 ここに面白い説がある。『飛騨福来心理学研究所』を主催されていた故山本建造氏は、天皇家のルーツを飛騨乗鞍岳の麓へ求めている。
『淡の上方様』と呼ばれる天皇家の祖先は、平和の内に住民たちを統治していた。しかし大陸からの渡来者が増えるにつれて、悲惨な事件や争いが多くなって来た。
これを憂慮した『淡の上方様』は、方々へ人を遣わし渡来人の監視と上陸阻止に当たらせた。その渡来者たちは食人習慣を持っており、日本の人々はその犠牲になっていたのだと説いている。
この戦争の痕跡を残す縄文人たちの遺骨は、それが一部では事実であったことを示しているかも知れない。

 確かかどうかは知らないが、北京原人の住んでいた痕跡のある場所から、原人の子供の骨が何体も出土しているという。また古代の中国では、敵に囲まれて孤立した城砦国家では、住民たちがお互いの子供を交換して食料としたものらしい。
ある本によれば、つい100年程前まで中国では食人習慣が残っていた。彼のマルコポーロも、中国ではいつ殺されて食べられてしまうか心配だと書き残しているらしい。
これらのことから、荒唐無稽に聞こえる山本氏の説も、あながち出鱈目とも言えないのかも知れない。

# by bric_3410 | 2012-05-25 05:20 | Trackback | Comments(0)

少年時代

 昨日は、友人のラジオ出演を聴こうと久々に古いラジオを取り出して、少し懐かしい気分に浸りました。そこで、今日は懐かしついでに、子供時代に夢中になった番組の話しです。私が小学生の頃は現在のように多くの子供向け番組は存在していませんでした。
そんな中でも土曜日の7時から9時は、子供にとって最高の時間帯でした。何しろ「巨人の星」や「黄金バット」それから「謎の円盤UFO」と、立て続けに見逃せない番組が放映されていたのですからたまりません。

 それから「サンダー・バード」やその系列のシリーズ「キャプテン・スカーレット」「ジョー90」なども忘れてはいけません。それから「赤き血のイレブン」などは、差し詰め今でいう「キャプテン翼」のような存在でした。
そういう子供時代に夢中になった番組が、現代では好きなだけDVDで観られるのですから嬉しい限りです。
 私の場合は、ここ数年の間で盛んに出版されているマガジン形式の雑誌(何々を作るとか、何々コレクション)の創刊号から気に入ったものだけを購入します。
そうして安価で入手したDVDは、子供時代の懐かしい番組ばかりです。サンダー・バードや謎の円盤は、とてもよく出来ています。未来的なフォルムのメカは、本当に素晴しく先進的なものでした。

 それから、この日記を書きながら思い出したのは、私の子供時代の物価でした。昭和40年代のお話しですが、一日10円も持っていれば小学生には十分な時代でした。
記憶しているのは、鉛筆1本、アイスキャンデー、菓子パンなどは5円でしたし、10円出せば少し小さめのアイスクリームが買えたものでした。直径が3センチくらいの飴玉が1個1円だったなぁなどと思い出が尽きなくなってしまいました。
まあ当時の大人たちの給料が1万~2万程度だったのを考えると、決して安い物価とは言えませんでしたが、それでも少しの物で幸せを感じられた良い時代だったと思います。

 大人たちも大らかで(田舎だったからかも)、子供たちは毎日夕方まで遊び、先生が「もう帰りなさい」と言うまで夢中になって遊んでいたものです。時に先生の気が向くと、授業を止めてクラス全員で川遊びや冬には雪合戦などをしたものです。
古き良き時代、私の育った北陸の山村も賑やかで、大勢の人々が住んでいました。懐かしい郷愁を誘う物は、一瞬にして昔の時代に私達を連れて行ってくれます。
胸の奥にほんのりと小さな明かりが灯る、たまにはそんな時間の過ごし方も悪くはありません。

# by bric_3410 | 2012-05-24 05:22 | Trackback | Comments(0)

友人がFMラジオ番組に出演


 友人が本日22日に、地元FM局の番組に出演が決まったと、メールしてきた。どこの局かというと、富山のミニFM局で、隣の市の局だった。
周波数と放送時間を知らせてくれたので、半分は無理と思いながら、懐かしい高性能ラジオ「スカイセンサー」を数年ぶりにとり出した。
 もう古いのだが、電源を入れるとちゃんと作動して、ピーピー、ガーガーと懐かしいノイズを楽しみながら周波数を合わせてみるが、やはり拾えない。
と、いうことで、諦めました(笑)
その時の模様は、頼まなくても友人が教えてくれるに違いありません。
 
 ところで、スカイセンサーとはS○N○が販売していたラジオで、MM・FM・SW1・2・3と中波から短波まで受信でき、尚且つ音質も良いという優れものだった。
確か中学生の頃だったか、深夜放送を聞きながら眠るという習慣があり、必然的に受信機にも興味を持つことになった。
海外の短波まで聴ける、スカイセンサーは私の憧れの的だったが、不思議なことに手に入れた時のことは覚えていない。恐らく、もう興味が薄れ掛けた頃に、買ってもらったのかも知れない。

 高校生になると部活で忙しく、疲れていたので何時しかラジオを聴くことも少なくなっていった。そして埃まみれに成ったラジオを仕事から帰り、いの一番に取りだしたのだが、懐かしいラジオを見てまた聞いてみようかと思った。

# by bric_3410 | 2012-05-23 04:56 | Trackback | Comments(0)

父とM君


 M君と久し振りに一緒に仕事をした。M君は先日自損事故を起こし、愛車を壊した。それで、新たな車を探していた。
それが見つかって購入を決めたというのだが、やっぱり違う車の方が良かったかなぁとか、自動車屋さんがネットで探したので、どうかなぁなどと、決めて申し込んでしまってから何だかんだと言う。

 私が「申し込んでしまったのなら、今更もう遅いよ」と言うと、納得して黙った。しかし、今度は写真で見た車のタイヤが磨耗していたから、何処のメーカーのタイヤが良いかなぁ、とまた迷い出して、仕事中はその話しばかりしていた。
どうも、何かを決めた後でもあれこれと迷い心が定まらない傾向があるM君、彼のこの性格は実に私の父親にそっくりだ。

 先日、仲の悪かった親戚の叔父さんが亡くなった。その通夜に行くとか行かないとか、父は全くハッキリしない。
その故人からは、以前に叔母の葬儀で謂われもなく酷い言葉を投げつけられていたし、その子供たちからも両親は無視されていた。他にも過去に、その家の人々から様々な迷惑を我が家は掛けられている。そんな事情もあり、父は迷いに迷っている。
何事につけて決めてからでもウジウジと悩み、言うことがコロコロと変転する。そんな父の傍で母は、いつもイライラしている。妹は感情的になり、通夜にも葬儀にも行く必要はないと主張している。
 
父はその場では口を合わせているが、依然として迷っており自分の意志を明確にしない。結局は私に決めて欲しいと言って来た。私は迷わずに、行きなさいと指示をした。
そして私自身も、葬儀には出席できないが通夜には行くことにした。私も故人には良い印象などカケラも無いが、今後の為に参加した。今後とは何時か必ず訪れる両親のその時のことだ。
 先日も友人とその様なことで話しをした。もしもの時はどうするか、長男としては腹を括っておかねばならない。疎遠な親戚との付き合いは、両親の代で止める積りだとか、迷惑だから遠方の縁者には知らせないなど、様々なことを予め決定しておく必要がある。

 妹や弟たちは、そんな事を考える必要もなく、ただ感情的に意見を言う。長男はそうは行かないのだよ、兄弟たちよ。私は感情的な面よりも、故人の葬儀をする人の立場が気になるのだ。世間では、同僚や知人の縁者というだけで見ず知らずの人の葬儀に参加し、苦しい懐から御香典や御仏前を出すではないか。それならば、幾ら仲が悪かったといっても親戚である限り、通夜や葬儀に誰かが顔を出すのは常識であろう。

その点で、私の中で是非はないのだ。例え結果として相手が我が家の通夜にも葬儀にも顔を出さずとも、感情的になって程度の低い連中の居る次元までこちらが落ちることもない。
逆に縁が切れて、清々するというものだ。私の考えは極めてシンプルなのだ。
行くべきは行く、最初から明確だ。妹たちの様に感情に振り回されて、自分自身で余計な苦しみを作り出す必要もない。
 ますます複雑さを極める現代社会、少しでもシンプルに考えることは、楽に生きる手段の一つにもなるだろう。

私達は、日頃から複雑なことが高度なこと、或いは良いことだと思い込んではいないだろうか。真に高度なこと、良いこととはシンプルで物事に対して効果的なことであると私は考えている。反対に必要以上に複雑なやり方や手順は、エラーが発生し易く決して高度な方法とは言えないと思っている。皆さんは、どうお考えだろうか。

# by bric_3410 | 2012-05-22 05:21 | Trackback | Comments(0)

中臣鎌足はなぜ藤原鎌足となったか

 中大兄皇子と共に蘇我氏を打倒し、日本史の表舞台に躍り出た中臣鎌足は、その後に政権の中枢を支配した藤原氏の祖として有名である。
一方で、中大兄皇子は後に天智天王として即位する。中大兄皇子と鎌足が蘇我入鹿を討った理由は、様々に推測されているが結局は政治的な姿勢の違いが原因であろうと思われる。

 さて、大化の改新後も中臣鎌足であったが、病床に臥した鎌足に天智天皇が藤原姓を与えたものと云われている。鎌足自身はその後に病死しているが、最期は中臣鎌足ではなく藤原鎌足として亡くなったらしい。
更に天智天皇は藤原姓に加えて、大臣の位も一緒に与えていることから、鎌足自身よりもその後継者に、より政治的な力と資格を与えたかったのかも知れない。
というのも、中臣姓のままでは古代の氏姓制度に縛られており、中臣氏が政治の中枢に加わるのは困難だと考えられたからだ。中臣氏は古代の制度では「連(むらじ)」に当たる。
「連」は特定の職業に従事する人々であり、他には大伴、物部(両方とも軍事関係の職業)などがあり中、臣氏は祭祀に関わる職業の姓である。

 これでは中央政界では動き難いので、大織冠の位を与え、「連」の上の「臣」に格上げし、更に藤原の姓を与えて、その動きを助ける目的もあったに違いない。そのお陰で、鎌足の息子である不比等は政権の中枢に、それ以後も長々と続く藤原氏の権勢の基礎を築いたのである。

 中大兄皇子は日本書紀によれば、母親の斉明天皇が死去してもすぐには即位せず、母の死後6年も経てから即位したのだという。その理由も明確ではないが、どうやら朝鮮半島への遠征の失敗の責任を取ったものと思われている。
そもそも、蘇我氏との対立も朝鮮半島政策の食い違いという側面も否定できず、半島のどの国を支援するかという意見の対立があったのかも知れない。
更に実は藤原鎌足とは朝鮮半島の国、伽耶国の王族の血を引く人物であったという説や、天智天皇自身がそうであったとする説もあるらしい。

 その点について歴史書は余り語らないが、日本がこうした海外情勢の影響を強く受けるのは今も昔も変わらない。歴史上の出来事は実際にどうだったのか明確ではないが、それを推理するのは面白い。
中大兄皇子や藤原鎌足が活躍した時代と現代は、人々の身の回りは随分と様変わりしているが、人間の心理的な反応は物質的な環境の変化ほど変わっていないと言えるのかも知れない。その辺が現代の私たちに、歴史上の出来事を推測する手掛かりを与えてくれるのだ。

# by bric_3410 | 2012-05-21 05:33 | Trackback | Comments(0)

神との対話前夜 Ⅳ

 三番目の体験とは、何億ページもある様な分厚くい本を見せられたことである。その本はまるで宇宙のすべての英知、知識をウォルッシュ氏にも理解できるように本として表現して見せてくれたものであるらしい。
声は言います、今まで知りたいというウォルッシュ氏の欲求は、本当に純粋な気持ちから出ていた。しかし、今夜も知ることが出来ずに眠りについた。だが、これからは心配することはない、ここに全ての答えがあると。
そしてそれは、必要に応じてウォルッシュ氏に与えられるのであり、全てを記憶する必要などないということも付け加えられた。

 久し振りの爽快な目覚め、何百年も眠ったような感覚、超難問の答えがいきなり目前に現れた時の喜びや驚き、その感覚をウォルッシュ氏は楽しんだ。
これからは全てが変わる、喜びに満ちて体に戻った時、指一本動かすのも苦痛に感じる程の重さ、物質的肉体の鈍重さをヒシヒシと感じられずには居られなかった。
そして翌日、シャワーを浴びながら、思い出そうとした時、それが思い出せないばかりか考えれば考えるほど、見せられた本の内容は遠ざかった。
それが悲しくて、彼はシャワールームの中で、泣き出してしまった。その時にあの声が聞こえてきた。
貴方はまだ知るべきではないんだ、今は全てを知っているということを知っていればそれで良いのだと、声は告げた。

 これはつまり、私たちの脳が全てを覚えることが不可能だからだ。私たちの意識は、膨大なデーターの貯水池に繋がっていて、必要ならそこから情報なりデーターなりを取って来れば良いということである。
それを理解した瞬間に、ウォルッシュ氏は裸でシャワーを浴びながら、自分が覚醒したのだと分かったという。
 
そして、その後は神との対話が始まるまで12年もの歳月が流れていた。その間にウォルッシュ氏はこの体験から感じた愛にあふれる表現をしたならば、現実社会のルールから外れてしまうだろうと思えた。それを女性に対して表現すれば問題になるだろうし、男性に対して表現すれば、もっと厄介なトラブルになる。
それは愛にあふれる心を持ちながら、世界がそれを受けとりたがらない、受け取らない世界に彼が生きているからである。彼は自分の殻に閉じ篭ってしまう。
そこでウォルッシュ氏は、社会のルールに従って生きてみようと決意した。それから12年の間、ウォルッシュ氏は自分が真理と思うものを切り離し、通常のルールに合わせて生きた。こうすれば幸福になれるとする世間一般の考えを試し続けていた。結婚し、子供をつくり、一般的な人々の生活を営んでいたのだ。

しかし結局は何もかも上手く行かず、『神との対話』の冒頭にあるような結果になってしまったのである。彼は神に向けて怒りの手紙を書き、もう肉体を持っている必要も無い、あの12年前に見たあの世界の方が素晴しいと、神を脅すことまで考えた。
それに神が応えてくれ、一連の神とのやり取りが『神との対話』として纏められ、最初は小さな出版社から発売された。それを大手出版社が買い取り大ヒットし、現在のように世界中の言語に翻訳して売り出されることになったのである。

 しかし彼の対話した神が、真実の宇宙創造神であるのかは不明である。確かに私達は宇宙の一部であり、その意味では創造神の一部であることは確かであろう。
彼の神が幾つかに分けられた宇宙の霊的階層のどのレベルの存在かは分からないが、私たちはそんなことに必要以上に目くじらを立てることはない。
肝要なことは彼の神が伝えるメッセージの内容である。彼の本がヒットしてから、多くの人々がチャネリングで伝えられたというメッセージを発信する様になった。
彼によれば、誰でも内なる神と繋がっており、メッセージを受け取ることも可能だというから、それも頷ける。
 
しかし、どの様な情報を意識の貯水池から引き出すのかは、私たち次第である。チャネリングや自動書記その他の情報を引き出す作業は、とてもデリケートなものであり引き出す側の精神的な状態により結果は大きく左右されてしまう性質のものであろう。
その情報が私たちにとって有意義なものであるのか、考え得る真理に照らして正しい内容なのかを十分に注意深く検証する必要があることを忘れてはならない。

 余りにも有名なニール・ドナルド・ウォルッシュ氏の著書『神との対話』については、何も語るべき必要もないであろう。彼が苦悩の末に辿り付いた内なる超意識との会話は、少なくとも彼にとって結果的にマイナスには成らなかった。
この文章は書籍『精神世界が見えてくる』に掲載されている、ニール・ドナルド・ウォルッシュ氏へのロングインタビューを元にしている。
名著『神との対話』の背景に、この様な体験が隠れていたことを知って、改めて彼の著書を読み直すのも面白いと思った。ところが、肝心の第一巻が何処へ消え失せたのか、行方不明である(笑)

# by bric_3410 | 2012-05-20 00:50 | Trackback | Comments(2)

神との対話前夜 Ⅲ

 明滅しながら瞬時に色と形を変えるモザイクは、永遠に続くすべての色を網羅しているように思えた。それに魅了されたウォルッシュ氏は、それに近づこうとした。
すると、それは瞬間にして遠ざかり、また遠くで明滅を繰り返している。また追い掛けると遠ざかる、そんなことを何度か繰り返し、ウォルッシュ氏は失望の余りに泣き出してしまったのだという。

 その瞬間に、それまで聞いたことがない程のソフトで優しい声がした。
「ニール分からないのかい・・・・・」それは、自分の目に鼻が近づけないのと同じことだと、その声は告げた。
しかしウォルッシュ氏にはその意味が理解できなかった。すると、また声が告げる。
いま貴方が近づこうとしているのは、貴方自身の姿なのだ。貴方が動けば、それも当然のこと動くのだと、優しく教えてくれた。
そう言われてウォルッシュ氏は気がついた。それは分子よりも、原子よりも更にもっともっと小さい形、つまり生の宇宙エネルギーそのものを見ているということに。
そして、自身もその一部であるということにも。

 最も小さな単位では、全てのものに区分けが存在せず、私たち人間も宇宙エネルギーと同じ存在であると気が付いたのもこの時だったとウォルッシュ氏は語る。
ソフトで優しい声は、この時つぎのように言った。「全てのものは一つであり、貴方はその一部である。そして同時に貴方そのものが全てのものなのだ」と。
これはウォルッシュ氏が自分の最も深い部分で感じたことであり、誰かから教えられたものではない、正真正銘の体験なのだ。
無条件の愛に包まれている、その喜びは無上のものだったが、その時にウォルッシュ氏は自分にはそれを受け取る資格が無いと思ったという。

 すると声が、貴方はそのままで完璧なのだと告げた。しかしそれでも、ウォルッシュ氏は自分のして来たことを知れば、そんなことは言えないだろうと呟いた。
だが声は勿論、全てを知っているが、それでも貴方は今のままで完璧だし、私の宇宙の中では完璧でないものなど存在しないと続けた。
 確かに存在そのものは、存在のために必要な全ての条件が揃って初めて存在が可能になるのである。それが一つの物として不完全であろうとも、それとは別に存在の要件さえ満たしていればそれは存在するのである。
その意味で当時のウォルッシュ氏のように人生に絶望していたとしても、存在そのものとしては完璧なのであり、存在する要件を完全に満たしているのである。
それはつまり、宇宙に愛されている、ということだと私(ブログ筆者)は考える。

 ウォルッシュ氏の体験には遠く及ばないが、私も全てと一体であると実感した経験がある。それは本当に温かな幸福感で満たされ、何の恐れも無い、安心と歓喜の体験だった。
それからソフトで優しい声も、一度だけ聞いた。男性の声であったが、私を叱咤しつつもこれ以上に無い優しさと思いやりを感じさせる声であった。
これらの自分自身の体験を通して、不思議ではあるけれど、こういうことは確かに事実として存在するのだと、私には理解できるのである。

 それにしても、ウォルッシュ氏に語り掛けた声とは何だろうか。彼はそれを『神』だと言うが、果たしてそうなのだろうか。しかしウォルッシュ氏は、自分に託されたメッセージが読者にとって価値のあるものかどうか、その一点こそが大切であると述べている。
それこそが、メッセンジャーにとって最も大切な事柄であるからだ。
横道に逸れたが、ウォルッシュ氏が在りのままの自分で、この無上の愛を受け取る資格があるのだと理解した時に、次なる体験の扉が開かれたのだ。

# by bric_3410 | 2012-05-19 06:49 | Trackback | Comments(0)

神との対話前夜 Ⅱ

 ニール・ドナルド・ウォルッシュ氏の幽体離脱体験については、神との対話にはほんの数行しか載せられていない。増してや、その体験が神との対話へと繋がって行ったことなど、読者には想像がつかなかった。
その重要な体験をウォルッシュ氏は、わざわざ大きく取り上げることはしなかった。というのも彼にとって重要なことはメッセージそのものなのであり、彼個人が必要以上に関心を向けられないようにと配慮していたからだ。

 私達は往々にして、その人の発信するメッセージよりも、その人の体験や私生活に注目する傾向がある。例えば芸能人の芸能に対するより、その私生活を知りたいと、ゴシップ記事が注目されるのもそうした類であろう。
兎に角ウォルッシュ氏は、そういう事態を避けたかった。つまり、注目すべきは彼自身ではなく、そのメッセージであるということだ。
 とはいえ彼の幽体離脱体験そのものは、彼の人生を大きく変えるターニングポイントだったのであり、神からのメッセージを世界中の人々とシェアするという素晴しい結果をもたらした原点でもある。

その体験とは、以下のようなものだったと、ウォルッシュ氏は語っている。
以前の妻と喧嘩をした後で、ベッドに入り枕に頭を乗せると、エネルギーが全て出て行ってしまった様に感じた。そして、あっと言う間に眠りに落ちていった。
眠りに落ちつつある朦朧とする意識の中で「こんな小さな問題すら解決できないのに、一体どうやって色々と大変な問題を解決できるというのか」と考えた。
枕に頭が沈み込んでいく感じがし、それから不思議だがこの眠りがこれまでで最も深い眠りになることを知っていた。

と、不意にその眠りから起こされたように感じた。しかも、非常に素早く、テーブルの上のタバコの灰が瞬間的に掃除機に吸い込まれるように、ベッドから別の場所に吸い込まれたように感じた。
彼がその状態で最初に目にしたのは、ベッドに横たわる自分自身だった。はじめ、その人物が誰であるのかウォルッシュ氏にはピンと来なかった。
そして自分が身体の中に居ないのだと気付き、自分の存在はあのベッドの上の肉の塊とは何の関係もないと確信した。

それから、今まで感じたことのない軽さと喜び、それから自由を体験したという。次の瞬間、彼は天井を付きぬけ空へまいあがり、大気の層をも突き抜けトンネルのような暗闇を猛スピードで、その向こう側にある光へと突き進んだ。その時、恐れや不安はなく、その白い光に入り一体となった。その光に包まれ、抱かれているという感情は、人間の言葉で表現することは不可能であるという。
その体験は人間の最も深い部分での体験であるかも知れない。そこでの体験は、素晴しいものだった。

 周囲を見渡すと白い光は消え、代わりに夥しい数の光が踊っているのが見えた。その光は全て違う形、違う色で、この宇宙に存在する全ての色を見ている気がした。
それまで見たことのない深くて鮮やかな緑や青や赤の光が、まるでモザイクのように広がっていたのだ。モザイクの光は明滅している。そして消えた後で、再び灯った時は違う色違う形になっていた。彼の感激はひとしおだった。
それも尤もで、ウォルッシュ氏は、現実世界では色盲なのだから。

# by bric_3410 | 2012-05-18 05:21 | Trackback | Comments(0)

神との対話前夜 Ⅰ

 1992年の復活祭の夜、当時49歳の男が夜中に神に宛てて怒りの手紙を書いた。その男とは有名な著書『神との対話』を出版したニール・ドナルド・ウォルッシュである。
手紙には、自分の人生がどうしてこれ程までに惨めな苦労と失敗の連続であるのか?と手紙に神への質問をなぐり書きにしたのだ。
その夜ニールは妻と些細なことで激しい口論をした挙句、自分の部屋へ行くとベッドに寝転がった。怒りつつも情けなくて、ニールは泣き出してしまっていた。
 若い頃から身体が弱く、それ故にアメリカの普通の男の子ならば当然のように経験するだろう野球やフットボール、バスケットボールなどの経験は無かった。
成人してからもお金に苦労し、女性との関係も上手く行かず、結婚と離婚を繰り返した。

 この夜までのニールは、お金が全てであり、違法で無い限り成功する為なら人を陥れても構わない、そういう考えの男だった。大金を得て、良い家や車を手に入れ、女性との関係を持ちたいと望む、そういう考えの持ち主だったのだ。
望んだ女性と関係を持つ為には、何でもした。そして次々と女性と関係を持つ、そういう生活が5年も続いていたのだという。当然、多くの女性を傷つけてきたのは言うまでもないことだ。

ニールは子供の頃には心臓に、二十二歳には肺の虚脱症、二十四歳まで十二指腸潰瘍、二十七歳には関節炎を患っており、身体はボロ雑巾のようだった。
ニールは一般的に言う神を信じてはいなかった。子供の頃には協会の神父さんに大人でもしない様な質問をし、何時間も話しをする少年であった。
その少年が神と縁を切る端緒の出来事は、父親と公園を歩いている時に起こった。二人は親切そうで仲睦まじそうな日本人の夫婦とすれ違った。
彼らはニールに綿飴をくれようとしたが、父親はそれを断った。そして吐き捨てる様にこう言った。「ジャップが!」

あれほど親切そうな人たちなのに、どうして?というニールの疑問に、父親は自分の中で、戦争はまだ続いているのだと答えた。その時、ニールは自分の方が人を癒すという事について父よりも多くを知っていると感じた。
それにこの世界には戦争や飢餓、殺人、強姦など世界中に残虐な出来事や行為があふれているのか理解が出来なかった。これは何故なのか?止めることはできないのか?と子供の時代のニールは神に質問していた。
ニールの知っている神は、何も答えてくれない。何時も如何なる祈りにも、どんな質問にも神は常に「沈黙」で答えるに過ぎなかったことも神と縁を切る大きな動機であったろう。
ともかく、ニールはキリスト教の神というものを信じなくなった。

神は常に沈黙を以ってしか答えない、これは多くの人々にとって共通の経験であろう。
ニールにも無論、神は答えてくれることは無かったのだ。1992年の夜までは・・・・。

# by bric_3410 | 2012-05-17 05:26 | Trackback | Comments(0)

私の仕事(半分は愚痴)

 私が小さな会社で所属している部署は、品質管理課である。クレーム処理から製品の性能試験、他社製品の分析、新製品の開発、従来品の改善、果ては手薄な部署への応援を行いながら、面倒極まりないISOまでを一手に引き受けている。
現在は上司を含め三名で仕事を行っているが、めいめいに雑多な仕事を持っている為に、本来の仕事を消化するのはとても大変だ。

 GWの次の週の土日、元は同業大手に居た製造本部長を本社から招いて、二日間の講習が行われた。私の仕事では科学薬品に対する若干の知識や、製品設計を行うための諸知識が必要である。
性能試験ひとつを取っても、正確な性能評価をするための知識が必要であり、問題が発生した場合もそれをどの様に捉えるかなど色々と面倒なのだ。そういった知識の一端を得るための休日返上の講習会だった。


 参加者は工場長、製造部の課長、係長、品質管理であったが、基本的に工場長を除いては肉体労働者なので休みを取上げられたのは辛かった。
文系の私などは、物質に関してのちょっとした知識や用語が余りピンと来ない。ほぼ全員が同じ状況だが、講師はお構いなく専門用語や化学的な常識を持ち出して、それがどういう意味かを説明することもなく話しを続けた。
しかも、講習中に時折だが学校の先生のように、質問が飛んでくる。
講習の最初は、主に私が製品開発や製品性能に関する報告をすることになった。品質管理の他のメンバーはこれに関して余りあてにならない。

 報告の合間にも色々と細かな質問が来る。結局は二時間以上も発表と講師からの質問に要し、講習初日は講習というよりも私の報告で大半の時間を費やす格好になった。
その夜は食事会で、帰宅したら午後10時近くになっていた。
翌日は朝から夕方までだったが、発表がない分、私には気楽な講習だった。だが問題は今後のデーターの示し方だ。
「テストデーターは、N=3が良いね。それくらいでないと、性能のバラツキが分からない。平均値では正しい評価が出来ないよ」的な講師のお言葉は、私に重く圧し掛かって来ている。

 毎週数点の試作品を作り、それをテストし評価したデーターをレポートにまとめ、週一回の会議に提出して次の開発の方向性を協議して決めねばならない。週に数日は午前中を他の部署の応援に回る。私にはあまり時間が与えられていない。
試作テスト以外にも通常の仕事、突発的な試験依頼など予定外の仕事も多い。
まあ早い話し、中小企業にはあり勝ちなことである。本来ならば、ジックリと腰を据えて取り組むべき事柄だが、それを許される環境にないというだけだ。
上司からは「まだ出来ないのか!」と、実情を無視した催促もある。無理が通れば道理が引っ込む、という訳だ。
本当は好きでもなく、適正があるとも思えない仕事だが、今は一生懸命にこなすしかない。
あーあ、テストデーターをどう見せようか、悩ましいがきりである。我が内なる英知、無限の知恵よ、直ちに現れ出でよと祈るばかりである。

# by bric_3410 | 2012-05-16 05:33 | Trackback | Comments(0)

弥生時代に格差が生まれた訳は(古代史の裏舞台より)

 弥生時代に入り、縄文時代には存在しなかった『格差』が表れた。縄文から弥生への変化の内で最も顕著なものは三つあると言われる。
一つは、稲作が始まったこと。二つ目は金属器の使用が始まったこと。そして三つ目は、貧富や身分の差が表れ始めたことである。

格差が発生する主な理由は、農耕が発達すると余剰作物の蓄積が進み、これが冨となる。そしてそのことが、自然に持てる者と持たざる者の格差が生み、収穫を重ねる毎にその差は大きくなって行ったのであろう。日本では水田耕作が大規模化するにつれて、広い水田と多くの人手が必要となった。それにより大規模な水田を所有する地主と、そこで働く人々とに分かれ、それが身分格差となっていったのだろう。

 その身分格差は、弥生時代の墓の発掘により伺い知ることが出来る。縄文時代の墓からは土器以外の副葬品が発見されることはまず無いが、しかし弥生時代の墓になれば、特別な副葬品が多数発見されるという。
弥生の墓からは、青銅器の剣や鏡、腕飾りやヒスイやガラスの玉類、銅の腕輪などが出土している。埋葬の仕方、副葬品の違いなどから、弥生時代には既にかなりの身分格差が生じていた可能性が高い。

 だが農耕は、弥生時代になって突然に始まったものでもないらしい。物事には順序があり、長い縄文時代に蓄積された農耕の経験が基礎にあって、それが弥生時代と現在の私たちが呼んでいる時代に本格化したのであろう。
縄文時代というと、狩猟採集生活と思い勝ちであるが、実際には粟や稗、エゴマ、さといもなどを畑で栽培されていたものらしい。
縄文人の食生活は以外に豊かで、魚介類や獣の肉、栗や栃の実なども食していた。栗などは自然のものではなく、栽培されたものであるという研究結果も存在すると聞いた。

 話しが逸れたが、縄文時代にも農耕が存在したとすれば、弥生時代との違いは最初にあげた金属器の使用開始と稲作の普及であろう。稲が粟や稗に比べて取り分け収量が高い作物とは思わないが、余計に栽培の手間が掛かる作物のような気がする。その栽培の手間が格差を発生させた一番の理由かも知れない。
しかし、現代社会は弥生時代など問題にも成らない格差社会である。一方で日々の食事にも事欠く人々が存在し、一方では飽食の時代などと平気で語る人々がいる。
これで果たして、人類は進歩したと言えるのであろうか。肥大した欲望を進歩と言うならば、確かに人類は進歩したのであろう。

# by bric_3410 | 2012-05-13 20:53 | Trackback | Comments(0)

江戸のしゃぼん玉売り(タイムスクープハンターより)

江戸時代には、様々な行商が存在した。魚屋、飴屋、夜鳴きそば、金魚屋、大道芸人など数えた切りがない程である。今回はしゃぼん玉売りの玉屋六助が主役である。
六助は江戸周辺の町でしゃぼんを売り歩く、しゃぼん玉売りである。数年前までは江戸に住んでいたが、火事で長屋を焼け出された。その時に妻と子供を失って、江戸に住むのを止めた。二人を思い出すのが辛いからである。

 六助はしゃぼんを売る以外にも、しゃぼんの楽しさを知って欲しくて、行く先々で場所を確保して子供たちを集めしゃぼん玉の楽しさを教えている。
今度も長屋の一角に場所を借りる交渉をし、承諾を得てチラシを配っている。子供たちが集まり、六助に群がっている。
それを木戸の影から見ている小さな男の子が居る。それに気が付いた六助はチラシをあげようと、声を掛けるが子供は逃げる。
思わず追いかけると、子供は転んで足を擦りむいてしまった。子供を背負って家まで送る。

 翌日はしゃぼん玉教室の日だ。楽しい集まりになったが、昨日家へと送り届けた子供も顔を出した。三吉というその男の子は、父親が町の人を裏切った罪で村八分の状態だった。
しばし楽しそうに皆と一緒にしゃぼん玉で遊ぶ三吉だったが、長屋の大家に見つかりつまみ出されてしまう。大家の態度は、子供に対するとは思えない激しいものだった。
三吉を心配して迎えに来た母親にも、大家は激しい叱責の言葉を浴びせかけ、たのしい筈のしゃぼん玉教室は暗転してしまった。

 異常に思った六助は、三吉の家を訪ねて訳を訊ねた。母親が言うには、長屋の連中が生活苦に耐えかねて、商家を襲い主人を殺す計画を立てたのだという。三吉の父親は正義感が強く、それを阻止すべく密告をした。それで、長屋からは村八分にされたのだ。
役人から礼金を貰ったのも不味かった。その父親も既に他界してしまい、母親はお上が奨励する帰農令に従いその日の夜に江戸を去ることにしていた。
六助が商売のために再び長屋へ行くが、昨日とは違い子供たちは彼の姿を見ると逃げて行ってしまう。
一人の子供を引き止めて理由を聞くと、六助からは何も買うなと言われていると答えた。でも、本当はしゃぼんを買いたい、と泣き出す子供。そこへ大家が現れ、「子さらいだ」と叫ぶ。長屋の人々は、六助が三吉の母親と只ならぬ関係だと誤解しており、言われ無き中傷に六助も怒り、もみ合いになるが多勢に無勢で袋叩きにされてしまう。

 宿へ戻り出立の準備をする六助の部屋へ、子供たちが忍んで来る。しゃぼん玉で送るという三吉との約束を果たしていない、何とかして約束を果たしたいと言うのだ。
だがしゃぼん液はもう無い。作ってくれと頼む子供たち。在り合わせの物でしゃぼん液を作る六助。子供たちを探す親の目を逃れて、宿から出て三吉を追う子供たちと六助。
六助たちは親たちの目は逃れたものの、大家に見つかってしまう。六助を糾弾し責める大家、平気で暴力を奮い無抵抗の六助はやられる一方だ。
その時、子供たちが物を投げつけ、大屋から六助を助けてくれた。

 急いで三吉親子の後を追うと、かろうじて追いつけた。子供たちと三吉は、約束どおりにしゃぼん玉で一緒に遊び、三吉を送ることができた。
しゃぼん売りの玉屋六助は、再び旅から旅へのしゃぼん売りにと出発して行った。彼は心の中で、亡くした子供としゃぼん玉に集まる子供たちの笑顔を重ね合わせている。
儲けようとは思わず、ただただ子供たちの笑顔のためにという想いであった。

 それにしても、親への憎しみがその子供に向けられるというのは有り勝ちなことだ。そしてそれが閉鎖的な長屋でとなれば、陰湿ないじめどころか露骨な嫌がらせや暴力に発展するのに余り時間は要しないだろう。
偏見とは恐ろしいものだ。物語では始めにこやかで親切だった大家が、後には平気で六助に暴力を奮い、よそ者は出て行け、二度と来るなとまで言う。
偏見や誤解とは本当に恐ろしいものだ。私たちも知らぬ間に無自覚に他の人を、偏見や先入観を持って見ているかも知れない。気をつけたいものだ。

# by bric_3410 | 2012-05-11 05:26 | Trackback | Comments(0)

古代人は姓をどう決めていたか(古代史の舞台裏より)

 ヤマト王権時代に採用された「氏姓制度」の氏とは、同じ先祖を持つ家族集団のことだとされる。氏とは社会的にも政治的にも基礎となる集団であった。
この氏の名には、地名に由来するものや職業に由来するものが存在した。
例えば「曽我」「藤原」「筑紫」「日向」などは、地名に由来するものであり、神事に関わる職業の氏は「中臣」など、「物部」「大伴」などは軍事関係の職についた人々が名乗った氏であった。

姓はその人物の家格や尊卑を示す呼称であった。「氏姓制度」とは氏を基礎単位としそれを姓によって秩序づけた制度であった。ヤマト王権時代に姓を持っていたのは豪族だけで、庶民には無かった。
大化の改新以降、日本も中国を手本にして、本格的に律令制度を導入しようとしていた。607年には「庚午年籍」(こうごねんじゃく)が作成され、全国民を戸(家)ごとに登録されることになった。
これにより、以前は豪族の所有物であった土地や領民たちは、中央政府により掌握されることになった。

 さて、そうなると庶民にも姓が必要になる。そこで昔から技術者集団などを管理するための「部民制度」の部をそのまま姓として名乗った人々もいたらしい。
例えば「馬飼部」「錦織部」「玉作部」「鵜飼部」「海女部」「土師部(土器を造る)」などが存在したという。
しかし他方では山本建造氏のように、山の麓に居たから山本、川の上流に居たので川上というように地名というより、居住していた場所を姓にした人々もいたという説もある。

 富山には佐々という姓がある。これは戦国武将佐々成政の子孫の方々と、成政から佐々の姓を下賜された家来衆の子孫の方々である。成政は後年、肥後熊本へ国替えをされているので、熊本にも恐らくは佐々姓の方がいらっしゃるだろう。
佐々姓に限らず藤原姓や徳川姓など由緒正しい姓の家は、ある程度のルーツを予想できるが、私のごとき姓ではルーツを辿ることは難しい。
きっと江戸時代が終わり、再び庶民にも苗字が許された折に、我が家の先祖が適当に名乗ったものであろう。

# by bric_3410 | 2012-05-10 05:23 | Trackback | Comments(0)

天皇という称号はいつ頃からあるのか

 現在は神話時代を含めて歴代全てを『天皇』と呼んでいるが、実際には古代には天皇とは呼んでいない時代も存在した。その時代日本の王の呼称は『大王(おおきみ)』であった。
例えば埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、獲加多支鹵(ワカタケル)大王とあり、これは雄略天皇のことであるとされている。

『大王』が『天皇』に変わったのはいつ頃のことであろうか。近年有力なのは天武天皇の時代から、というものだ。
そもそも天皇とは、中国で北極星を人格化した最高神を指す。実は674年に唐の高宗が自ら『天皇』と名乗っていたという。この後は再び皇帝に戻っている。
高宗が生きた時代、日本では天武天皇が政権の中心にいた。天武天皇は道教の熱心な信者であったことから、高宗を真似て『天皇』と名乗ったのかも知れない。

 また天武天皇は壬申の乱の勝利により、当時の日本では最高の権威を手中に収めていたから、それ以前の大王とは異なる呼び名を求めたのかも知れない。
そして近年、天武時代の飛鳥浄御原宮(あすか・きよみはらのみや)と推定されている地から、「大津皇」と記された木管が発見された。この皇の下には消えているが、恐らくは子という文字が記されていたに違いない。皇子とは天皇が存在してこその呼び名である。
そうであれば天武の時代には、少なくとも天皇という称号が、既に存在していたと考えられる。

 さて、天皇には他の呼び方も存在する。以前に読んだ本では、天皇のことをミカド或いはスメラミコトと呼んだりもするが、この語源はバビロニアンのミクド(天から降臨した、開拓者の意味)だとし、スメラミコトはサマリアの皇帝という意味があるそうだ。
現在では常識として定着している物事の中には、思いもよらない意味や由来があるものだ。それはグローバル化が叫ばれ、世界が狭く成ったとされる現代よりもずっと以前に世界的な交流が成されていたという証拠であろう。
古代人にとって、私達が考えるよりも地球は狭かったのかも知れない。

# by bric_3410 | 2012-05-09 05:05 | Trackback | Comments(0)

「倭」から「日本」へと国号変更の経緯は?(古代史の舞台裏より)

 私達日本人は、一体いつ頃から自分達の国土を『日本』と呼び、自分達を『日本人』と呼ぶようになったのだろう?
日本と日本人について記した記事の多くは、中国の古文献に残っているのみである。その中国の古文献では、日本という国号も日本人或いは日本民族という呼称も登場しない。
魏志倭人伝などが有名であるが、古代中国の書では日本を『倭』(わ)と称している。従って日本人のことは倭人という表現になっている。

初めて日本という国号が登場したのは645年7月の朝鮮諸国の使節に対して、日本側は『明神御宇日本天皇』と称したと言われている。648年には日本からの唐への使者が「倭国は自らその名を嫌って日本と改めた」と語ったと『旧唐書』(945年成立)に記されている。
他には702年の遣唐使も、国号を『日本』と名乗ったという記録がある。
 元々の『倭』(わ)という漢字の意味は、背が低い、醜い、人に従順であるといった良い意味で使われていたものではないらしい。

 漢字の知識が深まってくると、その意味を理解したのであろう。そうなれば屈辱的な意味を持つ『倭』(わ)という国号を嫌っても当然であろう。恐らく当初は中国側の言うままに、何も知らずに『倭』(わ)と名乗っていたのではあるまいか。
古代の中国は日本とは比べ様もない大国であり、世界の先進国であり大文明国家であったから無理もないことかも知れない。
 ともかくも、国として漸く体裁を整えつつあった日本は、中国の文物を何でも在り難がって取り入れていた。漢字もその一つだったが、自分たちを指す『倭』(わ)という漢字の意味を知った時に愕然とし怒りを覚えたのかも知れない。

国号を『日本』と改めた時期は、定かではない。有力な説では大化改新より後であろうとされている。その新たな『日本』という国号は、607年に遣隋使の小野妹子が隋の煬帝に渡した国書に由来すると考えられている。
あの有名な一節「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という一文の「日出づる処」という箇所からイメージされたのであろうと推定されている。
国内で正式に『日本』という国号を使用したのは701年の『大宝律令』からであるという。

 それにしても、私は自分たちの国名の成り立ちさえも詳らかに知らなかった。私達の祖先は、自らの誇りや未来への希望をこの新しい国号『日本』に託したのであろう。
またこの国号変更の経緯を見ても、私たち日本人の特徴である異文化を取り込み、自分達なりに活用し、改良していく性質の一端が垣間見える気がする。

# by bric_3410 | 2012-05-08 05:16 | Trackback | Comments(0)

映画鑑賞

 楽しみにしていたGWも、悪天候と葬儀で台無しになった気がしていたが、最期に良いことがあった。特段に良いことでもないが、聞けば「何だそんなことか」と思われるような些細なことである。
最終日の今日も朝から雷鳴が轟き、さらに大粒の雨と強い風の音を聞きながら目覚めた。
昨夜録画しておいた映画を観る。『ウォーリー』と『阪急電車 片道15分の奇跡』である。

両方とも映画館で上映されていた頃から観たかった映画だ。予想に違わず2作品とも、私の趣味にピッタリの映画であった。
『ウォーリー』は、無条件で楽しめた。地球がゴミで溢れ、人間は住めなくなりつつあった時代に、宇宙へ向けて巨大な避難船を旅立たせた。キーワードは地球に植物を発見したら帰還すること。舞台はそれから700年も経た後の時代の宇宙船の中だ。
旅立ってから何世代も重力の少ない環境の為に、人間は手足が異常に短くなり、自在に移動する椅子から離れず、自力で立つことも出来ない程になっている。高度に発達したロボットたちの世話なしでは生きられない。そこへ、地球探査に出かけたロボット「イヴ」が発見したのは、ゴミを回収してブロック状に固めて積み上げる「ウォーリー」。
仲が良くなった二体は、ウォーリーの家へ。そこでイヴは、探し続けていた植物に出会う。
植物を体内に収納したイヴは、迎えの船に乗り宇宙へ・・・、それを追いかけてウォーリーもまた宇宙船に掴まり宇宙へ・・・。
淋しいゴミ回収ロボット・ウォーリーと、最新式の探査ロボット・イヴ、冒険の果てに訪れた結末は・・・・。映像の見事さに加え、ストーリーは心を和ませてくれる秀作だった。

 さて『阪急電車 片道15分の奇跡』の方は、もっと良かった。人はそれぞれに悩みを抱え、辛い出来事を誰にも言えずに抱え込んでいる。何人もの無関係な人々の人生を、どの様にクロスさせるのだろうか。それも片道15分という短い路線の電車内で、どうやって?
という興味が、最初からあった。
 婚約者と後輩に裏切られたOL、恋人のDVに苦しむ女子大生、学校で各々に浮いている男女の大学生、嫌な食事に毎度つき合わされながら嫌と言えない主婦、受験に悩む女子高生、表面は穏やかにしているが息子夫婦との溝を感じているお婆さん、いじめに悩む小学生、これらの人々がたった15分の路線を利用しているというだけの接点しかない。

 物語は、孫を連れた息子夫婦との溝を感じているお婆さんを中心に展開していく。このお婆さん、とても人間が練れていて、常識的だが肝が座っている。
二人への当てつけに、故意に白いドレスで結婚式に出席したOLと、このお婆さんが同じ車両に乗り合わせる。
連れていた孫娘が「お嫁さんだ、綺麗ね」と、言った一言に、お婆さんはその女性がお嫁さんではないことを教える。
「お嫁さんでなくて御免ね」と、堪えきれずに涙を流すOLを優しく席に誘い、お婆さんは慰めつつ励ます。そして今後は、こうしたら良いよと、アドバイスをした。

 DVに悩む女子大生は、車内での何気ない会話から彼氏が切れ途中下車してしまう。駅のホームで女子大生を押し倒し、サッサと行ってしまった彼氏を見送ったのは、お婆ちゃんと孫娘だった。お婆ちゃんは転んで怪我をした女子大生を手当てしつつ、「あんな男は止めた方が良いわね。泣いても良いけど・・・」と、またアドバイスを送る。
そこから二人の女性たちが立ち直り、お婆さんにして貰ったことを悩み苦しむ他の人へと小さな親切を拡げていく。
OLはいじめに悩む小学生の少女を励まし、女子大生はストレスの余り胃腸に痛みが出た主婦を助け励ます。
小学生も主婦も、元気を取り戻し、生き生きとした顔になって行った。

 大なり小なり、物語の登場人物たちは阪急電車でこのお婆ちゃんと係わりがある。痛快なのは車内で人の迷惑も顧みず、大声で喋るおばちゃんグループに、お婆ちゃんが説教をする場面。このおばちゃんたちは、主婦を無理やりに高いランチに誘い、困らせている人たちだった。
鑑賞しながら女子大生を会わせて欲しいなと、思っていたが、それも最後に叶えているストーリーは期待に違わず面白くて良く出来ていた。
登場人物たちの紹介を兼ねた個々人の状況も、様々なエピソードを交えてとても簡潔に、そして分かり易く描かれていて好感が持てた。
 
私は自家用車で通勤しており、他の人々と触れ合う機会は無いが、それでも横断を助ける為に停車したりすると、小学生が会釈してくれたりする。
これは映画のストーリーで、現実には殆どないことだと分かっていても、電車やバスで通勤するのも悪くはないと思わせる。

観る人を幸福にする、そういう作品は飽きることなく何度も繰り返して観られる。
ハリウッドのアクションも良いが、春の日を浴びたように、心が少しだけ温かくなる、そういう作品が私は好きだ。詰まらなかったGWの最期の日に、良かったと思える映画に出会えたことは、幸運なことだった。

# by bric_3410 | 2012-05-07 05:26 | Trackback | Comments(0)

葬儀に出席しました

 ゴールデンウィークの真っ最中に、弟が葬儀に出席するという。聞けば同じ町の人で、同級生の住んでいる地区だったので誰か気になって新聞の死亡欄を見た。
心当たりのある名前は載っておらず、ホッとひと安心したのも束の間だった。
フト目に止まった名前がある、その人の名前は元首相と同姓同名。
「へえ~、同姓同名の人が居るんだ」と思った私は、喪主の名前を読んで驚いた。なんと、そこには会社の同僚の名前が記されていたからだ。

 通夜、葬儀の日時に素早く目を通した私は、すぐさま他の同僚に電話をした。彼は既にそのことを知っており、電話の相手は通夜に行くと言ったが、私は葬儀会場の場所が分からずインターネットで検索して突き止めた。見ず知らずの人ではあるが、同僚の父親であるから、自分のことを考えたら出ない訳には行かない。
そして、通夜よりは葬儀に出席することにした。故人は79歳であった。

葬儀には数名の上司が出席していたが、喪主の部下は一名も来ていなかった。若い彼らは通夜だけで済ませたのであろう。
私の年代になると、その親の世代は無論、友人知人でも亡くなる人々がチラホラと出てくる。故人のご冥福を祈りつつ、自分の体験もあり遺族の、とりわけ喪主の大変さを想像した。これから様々な事柄で役所や金融機関などへ出向き、書類を取ったり提出したりと大変に面倒な手続きが待っている。

そして宗派が浄土新宗であるから、確か初七日まで毎日、それが過ぎると7日毎に1回と、僧侶が経を読みに来る。その時、在宅の家族は一緒に読教せねばならない。
これがけっこう長くて、閉口した覚えがある。
それにしても、何事もお金が掛かり大変だ。香典でどれくらい位埋め合わせが出来るだろうか、などといらぬ心配までしている自分に気がついて思わず苦笑した。

# by bric_3410 | 2012-05-06 07:16 | Trackback | Comments(0)

模擬内閣(国民の知らない昭和史より)

 戦前の日本で、30歳代の若きエリートたちから成る模擬内閣が組織されていた事実を知る人は少ないだろう。そのエリート集団が、対米戦争に関して『必敗する』との結論を出していた事を知る人は更に少ない。
昭和16年8月、この年12月の開戦の3ヶ月前に、近衛内閣と模擬内閣は向かい合って一つの部屋に居た。模擬内閣に与えられた課題の結論を、本物の閣僚たちが聞くためである。

 彼らに与えられた課題は「英米の対日輸出禁止という経済封鎖に直面した場合、南方(オランダ領スマトラ・ボルネオ島など)の油田を武力で確保する方向で切り抜けたら、どうなるか」それを予測せよ、というものであった。
模擬内閣の顔ぶれは首相に窪田角一、日銀総裁(窪田内閣の)佐々木直など全員が30歳代の若さである。その構成は36名から成り、民間人が6名と大部分は官僚、そして5名の軍人がメンバーとなっていた。余談であるが、佐々木直は後年、実際に日銀総裁を務めた人物である。
 各関係機関から選りすぐられた彼らは、『総力戦研究所』なる急遽設立された機関に配属された。最初から選抜された人々ではあったが、一応の試験が必要ということから、担当者が苦慮した末に『面接』という現代では当然の手法が発案されたのだという。

 さて、示された課題に対する彼らの答えは、非常に現実的なものであり、この本での猪瀬直樹氏の記述に依れば、完全に太平洋戦争に関する彼らの見解は正しいものであった。
それは、まるで実際に観て来たかのようなシナリオで、現実の状況が彼らの予測をトレースしたかと錯覚するほどの内容であったという。
・日本が石油その他の資源を求めて、オランダ領を武力で奪取すれば、必ずアメリカがタンカーを攻撃し、そうなれば開戦になる。
・この場合、ドイツ、アメリカ、イギリスなどが必ずどちらかの陣営に属してしまい、日露戦争などとは異なり、仲裁に入る大国が不在となる。そうなれば、戦争は必然的に長期戦となり、国力の差が在り過ぎるので日本は勝てない。
緒戦の勝利で講和に持ち込むにしても、仲裁する大国が無いので、短期決戦で講和するのは虫が良すぎるというのだ。
窪田内閣の初閣議は、こうした想定を受け入れるか否かで紛糾したが、彼らは厳しいこの想定を受け入れた上で議論を開始したのである。

商工部門の大臣たちは、日本と先進諸国の国力の差を物資の生産能力や自給率で比較し、反対論を唱える閣僚(模擬内閣の)を納得させていった。例えばアメリカの石油自給率は32倍で、他のどの分野でも7倍以上であること、日本は綿花が三位に顔を出すが、他は全て比較した20カ国の内で最下位であることを具代的な数値を挙げて説明したのだ。
つまるところ、戦争をするからこれ等の自給率を5倍にしろなどと言われても、絶対に無理である。それは戦争をすべきではないと言う以前に、戦争など出来ないということだ。
これは、商工関係出身の者には常識だったが、中には信長の桶狭間を例に出し、反論する者もいた。

だが、海軍軍人の志村(海軍大臣)が、うんざりした表情で「勝つわけないだろ」と言った一言が一同を黙らせたらしい。志村は海軍大学校を主席で卒業し、卒論のテーマが丁度、これと同じだった。
志村は日ごろから軍人らしからぬ態度と意見で、所長とも対立していたし、他の者とも喧嘩になることもあった。
例えば「我が国には大和魂がある、相手にはない云々」と誰かが言うと「相手にはヤンキー魂があります。ある物を加えないのはおかしい」と、反論するという具合である。

ともかく短期の間にこれらの意見を集約して出た結論が、アメリカと戦争をしたら『必敗する』というものであった。これを聞いた当時の陸軍大臣であった東条英機は酷く狼狽した様子で、彼らを労いながらも、口外無用と釘を指したという。
それは、何を意味していたのか?これは、ただのシュミュレーションなのだ。それを聞いて、わざわざ釘を刺すとはと、模擬内閣のメンバーだった人は訝しがっていたという。
 この模擬内閣に参加した人々は、後に日本の産業界をリードした人々ばかりであるが、政治家に成った者は一人も居なかった。
完璧に、と言って差し支えない程に戦争の結果を予測した人々にとって、当時の政治家たちはどう見えていたのか。

 これを知ると、日本は宝の持ち腐れだっただと思ってしまう。彼らは余りにも優秀だったが、若すぎたのであろうか。綿密で正確なシュミュレーションをして見せた彼らを、当時の本当の閣僚たちはどう思ったのだろうか。
現役の閣僚たちにも開戦した場合の結果は見えていたのだろう、東条英機が「口外無用」と言った一言にその想いが滲んでいたような気がする。 
現在の日本にも彼らの様に先を正確に予測できる人々は居る筈である。勿論、政界にも存在しているかも知れない。しかし、そういう人々の意見を聞き入れる度量が現在のリーダーたちに在るのだろうか。

# by bric_3410 | 2012-05-05 07:18 | Trackback | Comments(1)

現代日本にも通じる開戦の事情

 少し古い本だが、『国民の知らない昭和史』という本を読み返している。著者は何人もいて、猪瀬直樹氏や堺屋太一氏、半藤一利氏など壮々たる面々13名が名を連ねている。
この面々が昭和という時代、殊に太平洋戦争を中心に様々な視点から各々の見解を述べているのがこの本である。内容は日本軍の体質から兵器、戦略や戦術に至るまで、実に多岐渡っている。
見識高い作家たちが綴った文章は、どれをとってもなる程と納得させられてしまう。

堺屋氏がトップバッターだが、彼は日本軍とは何であったかを解説してくれている。無論、今更それを論じても始まらないのだが、太平洋戦争の開戦に関して軍部の反応、特に海軍の反応を解析しながら現代社会にも通じる日本人の特質を浮き彫りにしている点が注目される。
 開戦の決定に当たっては、連合艦隊指令長官・山本五十六が当初から反対したと伝わるが結局は周知の如くな結果に終わった。連合艦隊指令長官といえども、所詮は一司令官に過ぎないという観方は尤もな気もするが、実際に当時の情勢を考えれば、その影響力は相当なものであった筈だと堺屋氏は記している。
そして閣内に於ける海軍大臣の発言力もまた、陸軍大臣と同等であり、特に立場の弱いものでは決して無かった。更には外務大臣その他の国務大臣たちもまた、同等の発言権を有し、何れかの大臣が開戦に徹底的に反対したならば、閣内不一致となり開戦を決定できなかったのだという旨のことを書いている。

 そして軍隊とは機能的組織としての性格と、共同体しての性格を持つのであり、この共同体としての性格が強く現れた時に判断を誤るのだと主張している。無論それは軍務に関係の無い他の省庁でも同様であり、会社組織にても同様であるとも述べている。
 つまり軍部は、陸海軍の仲が悪く、太平洋戦争開戦が決定された当時、海軍は陸軍に比して組織的に不利な立場にあるという意識が強く働いていたと分析している。
それは『国防』という軍の第一義を抜きにした、自己保身の思惑が働いていたが故に徹底した開戦反対の意思を示すことが出来なかったということである。

 陸軍は既に中国大陸にて戦端を開いて久しく(支那事変)、その為に海軍には予算も物資も思うに任せない状況が発生していたものらしい。
「今ある鉄では、アメリカと闘うには無理がある」とする海軍大臣に、「ならば、陸軍の鉄を半分海軍に回したらやれるか」と答えた陸軍大臣の言は海軍大臣を黙らせるに十分だった。しかし、鉄がすぐさま軍艦に変わるはずもなく、建艦が間に合わないなど反論の余地も十分に存在したのは確かである。
結局は「開戦止むなし」との結論に達したのだったが、それは各省庁が共同体としての保身に走ったが故の愚挙であったとしている。

 翻ってこれを現代社会に当てはめてみれば、全く同様の構図が見えて来るのである。誰も責任を取りたがらず、目前の課題から逃れることを第一義として各組織が動いているとしか見えない。現代行政に見る縦割り行政を盾にした問題のたらい回しは、問題の解決どころか余計に問題を大きくしてしまっている。
 3.11の大災害の処理、年金問題、TPP、尖閣諸島の問題、果ては先日発生した長距離バスの事故に関する規定の関係省庁の姿勢や判断の違いまでが同じ構図なのだ。
バス事故では一人の運転手が担当する距離の制限が長すぎるのは明らかだが、一方は自分たちの決めた距離を決して譲らなかった。そして悲惨な事故が起こった(必ずしも運転距離の問題ではないが)。それでも、役所は誰一人として責任を問われないのだから、距離の規制を見直すなど面倒なことはする筈がない。

 年金の未払い問題がクローズアップされた折には、払い込まれた年金の着服が何件も報じられたが、ここでも共同体としての意識が働き、保身の為に誰一人として罪に問われていない。官民を問わず組織内には必ず、こういう問題がついて回る。
民間ならまだしも、国家や自治体の行政がこれでは、一般の人々は救われない。私事だが、仕事をする上で、上司の余りの手際の悪さに「これが戦争なら、自分達はとっくに戦死している」と思うことが多々ある。勿論、失敗しても責任は取らない。
これでは実戦部隊に作戦も説明せず、戦地へ突っ込ませるようなものだ。兵士は必死で自分の判断で戦闘をするだろうが、それでも状況が明確でなければ成功も長続きはしない。

 こういう状態が今の日本なのではあるまいか?特に日本人は合議制が好きで、イザと成っても誰かに一任することがない。それは昔から同じで、固有の武力を持たなかった天皇家が延々と続いているのは、その日本人の特性の故でもあるのだろう。
例外的に幕末には大老という役職が存在したが、やはり、それを嫌った人々により暗殺(桜田門外の変)されてしまっている。
反対にアメリカでは、イザという時には一人に権力が集中し、組織もそれに応じて変えられる体制が整っている。戦時には戦闘の専門家が力を持ち、戦略の一切を取り仕切る、失敗すれば責任も取る。この特性の違いが、開戦の決定と太平洋戦争の趨勢に決定的な影響をもたらしたのだと思う。
私たち日本人は、古来より現代に至るも、その特性は変わっていない。これからは分離から統合の時代へと流れは変わると言われている。分離の時代に日本人の特性は裏目に出たが、統合の時代には輝き出すかも知れない。是非にもそうあって欲しいものだ。

# by bric_3410 | 2012-05-04 17:38 | Trackback | Comments(0)

辻斬り(タイムスクープハンターより)

江戸時代、各町内には辻番という、番所が設けられていた。そこには数名の男たちが昼夜を問わず常駐しており、町内を見張っていた。
本来は幕府の命により大名家が治安維持を目的に設置を命じられたものだったが、経費節減のため武士は置かず、町人たちが安いお金で雇われていた。
 
 物語はある辻番をレポートしたものだ。その付近では辻斬りが連続しており、その夜も辻斬りが発生し、辻番の若者たちが出動していた。
辻斬りとは現代風にいえば『通り魔』のようなもので、刀の試し切り、憂さ晴らし、剣術の腕を鍛えるなどの目的で人を切り殺す殺人のことである。

夜の闇の中、提灯を消して辻斬り犯を捜索する辻番たち。突然、暗がりから飛び出す辻斬り犯。辻番たちに刀を振りかざし切り掛かる。そして、辻番の一人が切られ、犯人は逃走した。切られた辻番は再起不能になり、その番所はたった4人に減ってしまった。
代わりに雇われたのは、60代の老人だった。
若者たちは呆気に取られ、老人では勤まらないと考えた。冬でも全ての戸を開け放ち、徹夜の番もあるからだ。それに何よりも、辻斬りなどの凶悪犯罪が発生した場合には、戦力にならないどころか足手まといになるに違いないからだった。

 年老いた新人は、当面は昼間のみの勤務とされた。ところがこの老辻番、武士相手にも全く臆することなく物を言う。柿の種を路上に吐き出した武士を見て、「何か落としましたよ」と声を掛け、相手が怒っても恐れない。しかし仲間たちは、老人に自主退職を迫る積りだった。
 そうする内に、白昼の辻斬りが発生した。犯人は隣の辻番の管轄から、こちら側へ逃げ込んだらしい。情報によれば、犯人はさすまたで腕に深い傷を負っているという。

 通行人をくまなく観察する辻番たち。しかし徹夜の番で若者たちには疲労が蓄積しており、彼らを睡魔が襲う。辻番たちの中でただ一人、しっかりと目を見開いて通行人を検索しているのは新入りの老人だけだ。その彼の目が不審な武士を捕らえた。
良い身なりの武士だが、左腕を袖の中に隠している。
老人は飄々とした様子で声を掛け、遂には相手の武士が怒りだす。仲間たちが仲裁に入るが、自分の藩名を名乗り、恫喝して去ろうとする。
と、しかし武士の立っていた場所には、多量の血痕があった。

辻番たちは直ぐに武士を追う、追い詰められた武士は空き家となっている武家屋敷に乞食を人質に取って逃げ込んでしまう。閉じられた門扉を開けようとしていると、男の悲鳴が聞こえた。あの人質の乞食が切られたに違いない!!辻番たちは必死で扉をこじ開ける。
中に踏み込み捜索をすると、頭から血を流した人質の乞食が荒れ果てた屋敷の庭に倒れている。辻番たちは乞食を番所へ運び、残った人数で屋敷内の捜索を慎重に続ける。
と、1人が血の付いた扉を見つけた。それを開け放つと、犯人と思しき武士が自害していた。しかし、顔が違う!!死体は人質の乞食だった。

番所が危ない!!武士が乞食と入れ替わっていたのだ。一同は青ざめた。
その頃、番所では、若者が医者を呼びに走り出していて、辻番は老人だけだった。ついに乞食に化けた犯人が正体を現し、1人になった老辻番に襲い掛かった。
武家屋敷から若者たちが掛け戻った時、老辻番は辻斬り犯と対峙していた。切り掛かる犯人、次の瞬間、老人は鮮やかに身を捻り犯人を見事な背負い投げで地面に叩きつけていた。
老人は素早く背後に回り込み、地面に突っ伏した犯人の腕を捻って取り押さえた。通報を受けて駆けつけた役人に犯人を引き渡し、ようやく一件落着となった。

 この一件で若者たちの老人への見方が一変した。自主退職をしてもらおうという考えから、老人の力強さ、冷静さを見せられて彼らは老人を尊敬するようになっていた。
その見事な身のこなしは、日ごろから見せる温厚で頼りない老人とはかけ離れていたからだ。リポーターは彼が元は武士ではなかったのか?と疑い、インタビューを試みるが、昔のことは忘れた、忘れるのは年寄りの特性ですよと、あっさりとはぐらかされてしまう。
徳川幕府も八代吉宗の時代には、辻番に多くの高齢者が採用されていたという。それは江戸の街の治安が向上していた証でもあるのだろう。

 さて、この老人は小説『剣客商売』の主人公である秋山小兵衛を思い起こさせる。小兵衛は武士であり、刀を挿しているが、一見して頼りない小さな爺さんである。
だが、一流の剣客であり、強い。
 武芸の話しは別にしても、日ごろは静かで頼りなく見えるが、イザとなったら頼り甲斐のある爺さんはとても魅力的な存在である。
そこには人生の山や谷を乗り切り、ある種の強さと智慧を身につけ人格者に成長し、成熟した人間の素晴しさが覗えるからだ。私も、そういう年寄りになりたいものだ。

# by bric_3410 | 2012-05-02 23:02 | Trackback | Comments(0)

弟分

 今日は突然に私を「兄貴」と呼んでくれる知人から連絡があり、会うことになった。
彼は私より7歳年下ですが、人生経験に於いては私では絶対に経験できないことを経験している。その問題が先日決着し、その報告を兼ねて会いたいと伝えてきたのだ。
この彼Jは明るいがいい加減な性格で、私を「兄貴」と呼びながら連絡しても返事もよこさず、いつも突然に連絡してくる。今日も以前に会ってから、一年以上が過ぎている。

 久々の再会だが、話しは自ずと精神世界のことになる。彼の周囲には、怪しい話しをできる相手がいないのだ。話しの内容はアセンションやフォトンベルト、パラレルワールド果てはタロットカードや占いまで。
先日決着したという問題だが、彼の中ではまだ引きずっているのでその事柄に関連した精神的な質問が、ポンポンと飛び出す。
私はそれに「あくまでも自分の見解だよ」と但し書きを付けながら、一般的な例を引きながら応えていく。

彼の質問は「アセンションとは?」とか、「愛とは何か?」とか、「兄貴の一番怖いものは?」そんな曖昧で漠然とした質問ばかり。私は一つ一つ、できるだけ丁寧に自分の見解を話して聞かせた。
それから、二人ともがまだ若かった頃の、共通の友人たちの話しに花を咲かせていると、あっと言う間に数時間が経過していた。
様々な話しをしたが、彼はどれだけ納得してくれただろうか。特に納得しなくとも、彼なりに少しでも楽になってくれたらそれで良いと思う。
私を兄貴と呼びながら、メールの返信もよこさない身勝手な弟分は、少しスッキリした顔つきで、にこやかに去って行った。次に連絡があるのは何時のことか(笑)

# by bric_3410 | 2012-04-29 19:58 | Trackback | Comments(2)

今日は会社を早退しました

 今週はどうも体調が思わしくない。月曜日は膝が痛み、火曜日は臀部、水曜日は背中と腰が痛んでいた。午前中は何とかなるが、夕方近くなると歩くだけでも辛い。
そして今日(木曜日)は、朝から足腰がだるく、歩くと痛い、身体全体が重く背中も痛かった。
それでも何とか出社し、重要な仕事をひとつ片付けたが、立っていることも辛いので思い切って早退した。
原因はおおよそ察しが付いていたので、直ぐに接骨院で治療を受けて帰宅した。

 どうも歳なのか?と一瞬感じ、そして若い頃に務めていた会社の同僚の口癖を思い出した。
「ああっ、歳は取りたくない・・・」と、その同僚は毎日のように言っていたものだ。しかし、その当時の彼はまだ20代半ばだったのだから笑える口癖だったと思う。
今頃は彼も歳を実感しているだろうか?それとも、元気で頑張っているのだろうか。

しかし確かに、若い頃は確かに歳を取りたくないと思っていた。身体が思うように動かせず、力も俊敏性も失われ、目も悪くなり肌艶も悪くなるのだから当然であろう。
とても嫌なことであり、出来れば遠ざけたい『老い』という問題は、アンチエイジングとして沢山の研究があちらこちらで成されてきている。
あの始皇帝に始まり、現在に至るまで人類は『老い』と『死』という大問題から何とかして逃れようと絶望的な戦いを繰り広げている。
だが『老い』とは本当に悪いことばかりなのであろうか。私は正直、そう悪いことではないと考えている。

老いとともに人生経験を重ね、若い頃には知り得なかった境地に達する、素晴しいことではないか。私は若かりし頃の自分を思い出すにつけ、随分と人間的に成長したものだと手前味噌であろうがそう感じている。
どういう道であれ自らの軌跡が人生には必ず存在する。他の人の評価はどうあれ、一人の人間が一生懸命に生きて来た足跡を確かに残しているのである。
世間的に名声を得ずとも、何も物質的な証拠を残していなくとも、現在の自分自身が人生の軌跡、足跡そのものである。歳を重ね人としての中味を成長させる、『老いる』とはそういうことであると私は考えている。
故に人生の先輩たちの言動には、時として失望を禁じえない場合もあるのだが・・・。

私の場合は夢中で働いた若き日、短気故に何度も失敗を重ね苦汁を噛み締めながら、次はこうしよう、ああやってみよう、ああ言えば良かった等と試行錯誤の連続であった。
歳を取ること、『老いる』ことは悪くない。不謹慎かも知れないが、私にとっては『死』も同様に悪くはないと思える。それはしかし、無論のこと人生を全うした場合に限られるとは思っているが。
私は自分の生き方に必ずしも満足している訳ではない。だが、若き日よりも少しは成長したと感じられる生き方が出来ていることを自己評価したいと思う今日このごろである。

# by bric_3410 | 2012-04-26 17:39 | Trackback | Comments(0)

ボーダーライン上の人類

 私がUFOや宇宙人、心霊現象などへの好奇心から俗にいう精神世界へと歩みを進めたのはもう20年近くも前のことである。
いつの間にかチャネリングらしきメッセージを受け取るようになったが、疑い深く小心者の私は、それらを鵜呑みにすることは無かった。
その時に知伝えられた内容は信ずるに足りないものだと思っていたが、それから数年の内に多くの書籍やインターネットで伝えられていた事柄と、受け取ったメッセージの内容が似ていることに気がつき驚いた。

 私が受け取ったメッセージから感じていたことは、人類滅亡の危機という事柄は、発展途上の人類にとって必ず通り抜けねばならない関門ではないかということだった。
そして、その関門に差し掛かる時期は、原子力の発見と利用、宇宙開発と宇宙への進出が図られる時代への突入であろうと考えていた。
現在までの科学技術の急激な発展は、その根底に兵器開発という大きな影の部分を合わせ持っている。
イギリスの産業革命に始まり、現在に至るまで絶えざる科学技術の発達の裏には、常に自分たち以外の人々を屈服させたいという、大いなる野望が横たわっている。
現代では少し前にはSFでしかなかった技術が、一般化し誰もがその恩恵にあずかっている。
その技術の大半が元々は軍事利用目的で開発され、民需へと転用されたものである。

 産軍複合体が世界を支配し、利益優先が叫ばれ、人々は幸福とは経済的に裕福であること以外に考えられないと錯覚させられた。実際には世界の冨の大半はホンの一握りの人々に握られており、そのおこぼれを他の人々が血眼になって奪い合うとい現実があった。
産軍複合体は世界経済を牛耳り、利益の為に政治をも操り、巧みに世界情勢を創り出し世論さえも自在に操作してきた。彼らの準備は常に怠りなく、中東にイスラエルを無理やりに建国し、消えざる戦争や紛争の火種を用意したりしている。

 その結果、私たちの文明は精神性がなおざりにされ、唯物論的なものへと偏重したいびつな文明となってしまった。その良い例が原子力というコントロール不能な危険極まりないエネルギーの発見が、最悪の形(広島・長崎への原爆投下)で最初に具現化されたのである。
そして一見して平和利用とされる原子力発電も、チェルノブイリやスリーマイル島、そして福島第一原発での取り返しのつかない事故を呼んでいる。
このような現状では、科学技術と精神性のバランスが著しく崩れているとしか言い様がない。

以前に紹介しながら途中で止めた『アミ小さな宇宙人』の中でも述べられていたが、善良な宇宙人たちが地球人と公式に交流するには幾つかの条件があるらしい。
惑星が一つの国家としてまとまっていること、宇宙の法則を理解し、遵守していることなど地球人にとっては厳しい条件が述べられていた。
 そして精神性を欠いて科学技術だけが突出した文明は、その科学技術を必ず自滅する方向へと用いるとも語られていた。
アミに指摘されるまでもなく、私たちはより素晴しい進化発展を遂げる道と自滅する道との分岐点に立っているのだと私は感じている。

# by bric_3410 | 2012-04-25 19:51 | Trackback | Comments(0)

春祭り

 先日、お金をおろしに駅前のATMへ出かけた折、郵便局の前で獅子舞を観ました。太鼓と横笛のシンプルな伴奏に、若者たちの掛け声、久し振りに目にした光景だった。
しかし、往年の獅子舞を知る私にとっては、極めて淋しく映ったのも確かだった。
子供の頃に煌びやかだが、大きくな目と巨大な鼻、そしてガチカチと鳴らされる大きな口から剥き出しの歯が恐ろしかったものだ。
獅子が自分の方へ向かって来て、口を大きく開けた姿が恐ろしくて、祖母に抱きついて泣き出した幼児の頃を思い出した。
私には余り小さい頃の記憶がないが、不思議に祖母にすがって泣いていた記憶ばかり思い出す。

# by bric_3410 | 2012-04-23 05:41 | Trackback | Comments(0)

自動車任意保険を更新しました


 春は私にとって物入りで、通常よりもお金が出て行く季節でもある。暖かくなり花が咲き乱れ、華やいだ雰囲気を今ひとつ楽しめないのはこれが原因かもしれない。
生活に自動車が欠かせない私にとって、自家用車の維持は絶対的に必要なことである。
無論、私に限らず幾つかの大都市圏を除く全国の多くの地域に居住する人々にとって、同じであろう。

 それにしても、我が国では自動車を一台保有するのに、何重の経費が必要なのだろうか。
自動車を購入した場合、取得税、消費税、重量税、自賠責保険料、県税、ざっと思い浮ぶだけでこれだけの費用項目がある。
加えて実際に使用するとなれば、燃料にも俗に言うガソリン税と消費税が掛かってくる。更に、安心して自動車に乗るには『任意保険』と呼称される損害賠償保険に加入しなければ成らない。これは購入の際に加入が義務づけられている強制保険では、もしもの時に充分な補償ができないからである。

 この任意保険と呼ばれる損害賠償のための保険は、1年契約であり私の場合はこれが4月23日で期限切れとなるため、急いで新たに加入する必要がある。
当然、民間の保険会社のお世話になるが、私は20年来の友人が保険代理店を営んでいる関係から、彼を窓口にして保険契約を行っている。
先日、その友人から連絡があり、新たに今年の契約を結んだ。支払いは約6万円。
そして、また暫くしたら自動車税(県税)約4万円の支払いの時期がやって来るのだ。

 友人と待ち合わせ、支払いを済ませた後で、世間話しをする。友人からかつての同僚たちや他の友人の話しを聞く。皆、歳をとり各々に悪戦苦闘している様を聞いた。
友人自身もお母様が痴呆で、毎日デイサービスへの送り迎えを余技なくされており、彼も奥さんも介護に疲れ果てているという。
友人は先日も具合が悪くなり、医者へ行った。原因は病気ではなく、何と栄養失調だと診断されたという。無論、食事は摂っているが、ストレスで吸収が充分でないらしい。
これは私にとっても他人事ではない、これから少し先に確実に似た様な現実が起こってくるのである。
先日も他の友人と話しをした際に、私は両親を見送ったら、自分は野垂れ死にする覚悟だよ、と告げた。それに対して友人も同じように考えていると言った。

 私たちの世代の多くの人は、未来に希望など持てないでいるのだろう。会社では先が見えているし、経済的にも苦しい、自分の体力にも自信が持てなくなりつつあるなど、様々な問題が高い壁として立ちはだかっているのだ。
これ等に関して、国家はまったく当にできない。年金も手に出来ないかも知れず、支給されたとしても雀の涙に違いないからだ。
私たち庶民の未来は暗い。両親の世代までは何とか成っても、自分のことにまで手が届かない、そういう厳しい現実がある。

# by bric_3410 | 2012-04-22 11:10 | Trackback | Comments(0)

通勤道路は花街道

 ようやく春らしい気候になり、私の通勤するルートは桜や梅、木蓮がそこかしこに咲き乱れている。いつも挨拶する木蓮の木も、清楚だが眩しいほどに美しい純白の花を誇らし気に咲かせてくれている。それから桜も今が盛りとばかりに咲き競っている。
近所の工業団地の周回道路沿いには、木蓮、ハナミズキ、それから公園には桜と梅、そして鮮やかなレモンイエローの花は水仙か。

 それにしても、ここ数年は春の装いも変わってきたという感じがする。私が周囲の自然に気を留めるようになってから久しい。
春に花が咲き乱れるのは同じだが、少なくとも数年前には咲く順番にある程度の秩序が存在した。マンサクがこぼれる様な黄色の花を咲かせ、山野にはカタカゴがひっそりとピンク色の花弁を輝かせ、可憐で小さな白い雪割り草、それからスミレやオオイヌのフグリなどが愛らしいな姿を見せる。
花木では、やはり梅が紅白の花を咲かせ、早咲きの山桜が蕾を開き、そしてソメイヨシノ、その次に八重咲きの桜といった具合に花が咲く順序があったように思う。
それを愛でる私たちも、花の移ろいから、少しずつ温かくなる気温から、春が足早にやって来るのを感じて嬉しさが徐々に増していったものだ。

 それが最近では天候異常によるものか、あらゆる花々が一斉に咲くのである。今年も例外ではなく、木蓮と桜、梅が同時に咲いている。花桃はまだ蕾だが、私が目にするのは日陰の木々なので明確には分からない。
どうも自然がおかしい、変だと感じだしたのは、ホンの数年前だ。植物は気温に反応して花を咲かせるので、気温に異変があるのだろう。
今年も春先から寒暖の差が激しく、桜の開花は足踏みを余技なくされた。
私の住む地方では、春を目前にしながら一転して雪が降るという事が何度かあった。
 
チャネリング情報などで、人間は自然を管理する責任の一翼を担っているという。それが確かならば、この気候変動は私たち人間の意識の狂いがもたらしたものであるのかも知れない。あらゆる預言や予言で人類社会の異変が伝えられている2012年という年の春、果たして如何なる運命が私たちを待ち受けているのだろうか。
いずれにしても、美しい花々の艶姿の競演を楽しみながら、日々通勤できることは幸せなことであるに違いない。

# by bric_3410 | 2012-04-19 05:27 | Trackback | Comments(0)

山菜の季節です


 我が家の食卓に、アサツキがのぼる季節になりました。これから他にも沢山の山の幸が採れる季節となりました。ウド、タラの芽、コシアブラ、フキのとう、こごみ、ゼンマイ、ワラビ、竹の子など、一斉に芽吹きます。
私がこれ等の中で最も好きなのが、アサツキです。子葱のようなものですが、その味と香りは全く違います。
 早春の田や土手に生えてくるアサツキは、やはり他の山菜と同様に若い内が柔らかくて美味しいものです。今年も何とか、有りつけました。
我が家では庭で数株、アサツキやウドを育てていますが、余り多くは採れませんから、一度か二度食卓に供せば終いです。 

今日は父が山奥の工事現場での仕事でしたので、休憩時間を利用してアサツキを採って来てくれました。我が家では、主におひたしと、アサツキ味噌にしてこれを食します。
何とも言えないあの味を思い出すだけで、口の中に春が来る、そんな感じがして幸福になれるのです。
 さて、私は山奥で幼少時代を過ごしましたが、そのせいか山菜が大嫌いでした。30歳代の終わりころまでは、山菜に限らず野菜類が嫌いでした。
ところが、何の因果か気が付くと、セリが大好物になっていて、バリバリ食べるようになっていました。それからキャベツの千切り、セロリやパセリも何の抵抗も無く美味しく食べられるようになりました。

何処かの時点で、身体が要求するものが変化したのでしょうか。よくよく考えてみれば、単なる不思議現象への興味から精神的な事柄へと興味が移行した時期と一致しているかも知れません。
 いえ、それは考え過ぎというもので、単に歳を取って好みが変わって来ただけやも知れない、などと色々と考えてみますが、結論は出ません。
兎に角、明日の食卓が楽しみです。母が湯がき過ぎなければ良いのですが(笑)

# by bric_3410 | 2012-04-17 05:20 | Trackback | Comments(0)

布教する人々


 時々だが、この田舎の家にもパンフレットを持って、布教に回っている人々が尋ねて来ることがある。一昨日も、呼び鈴に応じて玄関に出ると、二人のご婦人がパンフレットを手に話しを聞いて欲しいという。
その修派は何度も来ているので、何を言うのか分かっていた。
差し出されたパンフレットには、十項目程度の質問が記してある。それは以前にも見せられたものだったので、お断りした。

 「神は人間に対して感心を持っていると思われますか?」と、以前の人と同じ質問をして来たので丁寧に自分の意見を伝えさせてもらった。
それから、幾つかの問いかけにも答えながら、更に自分の意見を述べさせてもらった。相手の方は聖書?を開きつつ、一々に確認されている様子。
「よくお勉強されておいでで・・・」と、温和な表情で言いながら、相手の方は更に冊子を渡そうとされたので、それも丁寧にお断りした。
その理由は、どうせ読まないのだから無駄になるし、もしかしたらそれらのパンフレットや冊子は、訪問された方が教団から買取っておられるかも知れないからだ。
だとすれば、非常に申し訳ないことでもあるからだ。

 いつもは相手をしないのだが、この時は休日で暇を持て余していたし、週の初め頃から感じていた疲労感がようやく緩和しつつあったので少し相手をしたのだ。
実は私自身も若い頃には仏教系の新興教団の信仰をしており、休日の度に目ぼしい友人や知人に布教のために会いに行った経験がある。
教団の新聞を持ち、訪れた先で機会を見つけては教団の教議を語り、布教をするのだ。教団の支部では、今日は何人に話しをしたとか、次の会合に何人の人を勧誘したとか、まるで何処かの会社の営業部のような雰囲気だった。成果が無いと、叱責を受けたりする。

 今でこそ、多くの友人知人にご迷惑をお掛けしたと、深く反省しているが、当時は本気で教団の教えに導くことが相手の為になるのだと思い込んでいた。
教団の機関紙を自ら費用を負担して、友人知人に読んで貰ったことも再々だった。
だが仕事の関係で、暫く教団の活動を離れてみると、少し冷静になることができた。そして自分の言動を振り返り、教団の教えは結局、自分の疑問に何ひとつも答えてくれていないこと、それから押しかけられた人々の迷惑に気付がいた。
 
そういう経緯もあり、土曜日に訪問した人々の背景が少しだけ理解できる様な気がした。春とはいえ、今年は天候不順で土曜日も肌寒い日であった。
仕事をしていれば、休みたいであろう休日に、勇気を振り絞って見知らぬ人の家を訪問して、普通であれば顔をしかめられる様な話しをする。
これはそれを専門にする飛び込みの営業マンでも辛いに違いないし、仕事でもない人たちにとっては尚更であろう。そういう意味で、私は話しだけでも聞こうと思った訳である。
しかし、自分が信じる教義を流布するという喜びはあるだろう。そういう点でも、私は体験から理解も出来る。
他人の信仰にどうこう言える立場ではないし、また言うべきではないと思っている。それは日本では法的に保護されている事でもあり、常識でもある。

 この点についてコメントする積りはない、しかし自らの若かりし頃の事を訪問して来た人々との会話から、思い起こされたのだ。尤も、その教義に興味は無いし、信仰する気など更にない。しかし、この人たちの今の行いは、自らも通って来た道でもあった。
ただ「ご苦労様です」と、心からのそういう想いがあるだけだった。

# by brIC_3410 | 2012-04-16 05:18 | Trackback | Comments(0)

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