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陸軍最後の名将

 昭和40年8月30日、宮崎繁三郎氏は病院のベッドで最後の時を迎えていた。最後まで部隊の部下たちを気遣って亡くなったという。
宮崎繁三郎元陸軍中将は、地獄の作戦と呼ばれたインパール作戦で、最後まで部隊をよく率いて戦った名将である。
第15軍司令官の無茶な命令は、僅か3週間でアラカン山脈を越えてインドのインパールを占拠せよというものだった。

作戦には三個師団(5万名弱)の兵力が投入された。第15、31、33師団である。第15師団と33師団はインパール占領を目指し、31師団はコヒマの占領を下命されていた。
宮崎繁三郎(この頃は少将)は第31師団の支隊を率いて、峻厳な峰を超えてコヒマへの前進を試みる。宮崎自ら先頭に立って荷物を背負ったと伝わる。
作戦期間が短く、更には補給を無視した狂気の作戦であり、当然ながら目標とする期間内にインパールを陥落させることなど出来なかった。

 敵の強硬な抵抗と反撃に会い、戦線は膠着し各師団の進撃は止められている。敵は砲撃と戦車で防衛に当たり、強力な火器を持たない日本軍が太刀打ち出来る相手ではなかった。
師団長佐藤幸徳は熟慮の末に撤退を決断し、折しも宮崎の率いる600名程の歩兵部隊が殿(しんがり)(最後尾の部隊)となった。
師団は補給を受けられず、物資不足に窮しながらの撤退となった。食料不足も甚だしく、撤退した31師団本部はウルルクまで辿り着いたが、先に撤退した第15師団(牟田口中将)の部隊がすべての物資を持って行った為に状況は少しも変わらなかった。


一方で英軍の進撃を阻み一人奮戦していたのが、宮崎率いる600名弱の歩兵たちである。インパールとコヒマを結ぶインパール街道を遮断し、英軍4個師団と戦車1個師団、更には航空機部隊を有する大兵力を向うに回して戦い続けていた。
撤退した各師団は食料不足に悩み、何れも酷い飢餓状態に落ちていたが、意外にも最前線の宮崎隊に飢餓は存在しなかった。
宮崎は様々な奇策を用いて敵から食料を奪い、戦い続けていたからだ。
 
 最早インパール占領は不可能となり、宮崎は自分たちが寡兵(小兵力)である事を知られない様に注意しながら、ジリジリと後退していた。
しかしやがて宮崎の率いる部隊が寡兵だと知れると、英軍は戦車を先頭に大兵力で一気に宮崎たちの戦線を突破した。
事ここに至り、宮崎たちは作戦が完全に失敗したことを悟った。
敵の突破を許した時に、宮崎は最後の夜襲を敢行する積りでいた。無論、自らが先頭に立ち指揮する積りである。

幸運にもその日の夜中に伝令が撤退命令を持って支隊本部を訪れ、宮崎隊は夜襲を実行することなく撤退したのである。命令書には撤退命令と同時に、宮崎の中将への昇進が記してあった。
宮崎支隊は後退を始めたが、途中には累々たる味方将兵の死体が転がっていた。宮崎は自軍の人員掌握に心を砕き、一人の漏れも無く撤退する様にと下令していた。
途中では他部隊でも命有る者は動けぬ者でも収容しつつ、最優先で負傷者を後退させて行った。
このインパール攻略戦に参加した4万8900名の人員の損耗率は、実に74パーセントに及んだという。戦死者・戦病者1万人、行方不明者・負傷者1万7千人と伝わる。

この最悪の状況下で、撤退となれば息が有っても動けない者は置いて行かれた。そうして置き去りにされた者の中には、自決した人も多かったろう。この作戦に参加した師団は各々に似た様な問題を抱えていたから、どの部隊も悲惨なものだった。
過酷なジャングルで敵に追われながらも、動けなく成った味方の兵士を、宮崎支隊は見捨てずに収容しながら撤退して行った。
このような状況下で必死の指揮を執った事が、臨終の間際まで宮崎繁三郎氏の心に焼き付いていたのだろう。敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したかと、宮崎は最後まで気に掛けていたという。

by bric_3410 | 2013-07-31 21:42