人気ブログランキング | 話題のタグを見る

縄文の大集落はどうして捨てられたのか?

1992年に野球場造営の為の事前調査で発見された遺跡は、当時の学者たちを驚かせた。何故ならば縄文時代は家族単位での生活で、小規模集落しか発生していなかったとの常識がまかり通っていたからだが、三内丸山遺跡はそれを見事に覆したからだ。
5500年から約4000年前に栄えたと推定される集落の規模は桁外れに大きく、数百件の竪穴式住居跡と300㎡に及ぶ大きな家屋の跡や直径1メートルの柱6本で支えられた高殿の跡も発見された。

集落の人口は推定で500人以上とされ、縄文時代の大都会ともいえる大きな集落跡であった。更に土器、漆塗りの櫛や容器も出土し、ここの住人は高い技術力を持っていたと分かった。また翡翠や琥珀も発見され遠方との交易が行われていた可能性や、ヒエや栗の栽培など農業が行われていた可能性も見出された。

 驚いたことに神殿や広場の跡と思われる場所には、1500年にも及ぶ祭祀の痕跡が堆積されているらしい。つまりこの都市は1500年間も繁栄していたのだ。
その縄文の大都市が、どうして衰退してしまったのだろうか。反映していた都市が突如として放棄され住民たちが行方知れずという例は、世界の巨大都市の遺跡でも見られることではあるが、三内丸山の場合はどうなのだろう。

推定される最も有力な理由は『気候の寒冷化』であろう。縄文時代は狩猟採集生活だったという認識は、遠い過去のものである。縄文時代は栗や栃の実、ヒエなどが栽培されていたというのはもう常識である。無論、狩猟採集も同時に行われていただろう事は想像に難くない。
富山県の桜町遺跡などでは栃の実、団栗などを水に晒してアクを抜く施設、高度な木組み構造の遺物などが発見されている。
縄文時代中期から後期の初め頃と推定されるこの遺跡も、縄文人の技術力の高さを物語っている。

 話しは逸れたが、要する三内丸山の縄文人は、気候の寒冷化により栽培作物の不作が続き、遂には慣れ親しんだ住処を捨てて、新天地を求めて他の土地へ移り住んで行ったのだ。
気候の変動は無論、栽培作物だけでなく自然の木の実などにも甚大な影響を与える。魚介類の漁獲量にも影響したかも知れないし、狩猟にも影響したことだろう。
住人たちは全体で移動したかも知れないし、家族ごとや小集団で移動したかも知れない。
生き残りを掛けた縄文人たちのサバイバルは、果して成功したのだろうか。三内丸山遺跡の住人たちのその後の痕跡は分からない。
縄文の大集落はどうして捨てられたのか?_a0229259_2282229.jpg

縄文の大集落はどうして捨てられたのか?_a0229259_2283491.jpg

by bric_3410 | 2015-06-10 22:08